中国のクローン犬の話から  20200918

 中国では、クローン犬をつくり、販売するというビジネスがあるそうだ。テレビで紹介されていた。亡くなった飼い犬とそっくりのクローン犬を抱きしめて、満足げな飼い主の様子が放映されていた。
 もちろん、中国でも人間のクローンは禁止されているが、ペットに関しては厳格に規定されていないようだ。飼い主のペットロスの淋しさを思うと、クローンもいいだろうという意見があれば、反対に動物への虐待に当たらないかという声があるらしい。
 だが、亡くなったペットと同じ姿の犬を手に入れたとしても、やはり別物ではないのか。生き物なのだから、当然犬にも心があると思うが、クローン犬と亡くなった犬の心までも同一というわけにはいかないはずだ。クローン犬が飼い主の顔を覚えているはずもない。もっともクローン犬はもとの犬と姿やしぐさが本当に似ているそうだ。だから新たな学習をすることで、もとのペットに限りなく近づいていくのだと思われる。
 人間の場合でも、クローンを残したいという人もいるかもしれない。犬の場合と同じである。酷似した人物をつくりだすことはできるかもしれないが、クローン人間が元の人物と同じ心を持っていることにはならない。科学がどこまで進歩しても、心までも移植することはできないし、クローンの肉体は心を入れる容器たりえないのだ。
 だが、どうだろう。科学の力で物質的には均等、均質かと思えるクローンが生まれたとしても、そこに同じ心が発生しないと思われるのはどうしてか。それについてはとりあえず、二つのことが思い浮かぶ。一つは心は物質を超えたものであり、クローン技術による物質の再生によっても心は生み出せないという考え方である。心は物質ではないし、物資的なエネルギーに換算して測量することも馴染まない。要するに科学的な方法論では心の再製は不可能であり、心とは何かという本質の解明にすら至れないと思われる。
 もう一つ思い浮かぶことがある。人は自分が心を持っていると思っているが、それは脳の行う演算処理のようなものであり、コンピュータに心はあるかというテーマで議論されうることがあるが、結局、心とは脳による演算処理のことであるという考え方である。この立場に立てば、クローンの脳であっても、そもそもの元となる脳に構造的かつ物質的に酷似あるいは同一と言えるほどのものならば、同じ心を持つということになる。だが、これには落とし穴がある。クローン人間もヒトであるかぎり、成長過程が必要となる。そこで、クローンの原型となるヒトがたどった同一に近い環境と成長過程を歩むことは不可能に近いだろう。たしかに、誕生後の成長過程に元のクローンと酷似した学習過程を与えていけば、演算処理の在り方が酷似したヒト、すなわち心が酷似した人物が誕生するかもしれない。
 しかし、学習の期間は犬でも最低一年くらいは想定されるとしたならば、人間の場合、とりあえず二十歳の成人になる頃までの長期にわたって、下の人物が生きた過去と同じ環境をつくりだすことは到底不可能だと思う。たとえば、出会った友などは同じ人物をそろえることなど不可能である。
 するとどうなのか。心とは脳による演算処理であるとしても、物理的に同一の心をクローンに芽生えさせることはできない。もっとも、私は心は演算処理のことではないと思っている。それは肉体に宿る別ものだ。それは魂とも言い換えうるものだ。人間はそれまでもつくりだすことはできない。こんなことは、クローンについて少し考えてみればわかることである。どこまでも科学万能などありえない。要するに論理性のみでは分け入ることのできない領域がそこに存在するのである。もとのテーマに帰るならば、クローンは亡くなった元の犬や動物、人間も含めて、その心や魂を入れる容器となることはできないということだろう。
 人生とは一回的な出会いなのだと思う。そして、もし来世があったとしても、地上で得た不必要な思考を手放すのだとすれば、人は少なくとも地球人ならぬ地上人である自分とも決別する。人は自分自身とも別れねばならない存在なのだ。その一回性をどこまでも意識していることは、人生を大切にすることにつながると思う。 (堀 剛)