ブログ発信の動機について

ひと昔前、たとえば僕がまだ20歳の頃と言えば、40年以上の昔となる。その頃、自分が考えていることを文章で発信するというのは、一部の人が行う特殊な作業であった。そもそも自分の考えや文章が活字になるというだけで、それはすごいことだった。

 同人誌など作ろうものなら、まずは金集めをどうするかから始まったし、印刷屋の選別もたいへんな時代であった。そして、活字になったとたんに誰もが自分の文章がまるでひな壇にでも上がったかのように、心地よくかつ気恥ずかしく、時には何歩も質的に上昇したかのような錯覚を楽しく味わえた。

 だが、今ではそんなことを感じる人はどこにもいないだろう。コンピュータの普及によって活字が当たり前で有り、手書きの文字は非日常なものとなったとすら思えるのだ。

 そんな中で、個々人のプライバシーはどうやって確保されるのかとか、ネット社会において、個々人のプライバシーが確保されるのかとか問われるようになった。個と社会とのバランスの問題すら揺らぎ、ネットを通じて人は自分をさらけ出しているとも言えるような状況が存在するようになった。

 それならば、もう隠れ続けるのは得策ではない。自分の思考をさらけ出して行こうと思う。どうせ見られているのならば、明確に見せることによって何かを訴えることも可能となったのだから。

 インターネットによる発信があるからこそ、管理されることにつながるのだが、我々は何でも発信できるという武器を手に入れているというのは、今のところ日本社会では事実なのだ。

 これまで著作と言えば、金を費やして出版するものであった。装丁にも金がかかった。今でも本という紙ベースのものが絶対のものであるかのような風潮は存在する。また、読みやすさでは、紙ベースの本はIT端末に勝っていると思う。しかし、若い頃に大枚を叩いて手に入れた部数限定の詩集などは、いまでは自然劣化によって表紙の色が変わってしまったりしている。僕のように何十年も生きてみると、永久保存の価値を見いだしたような代物でさえ、そのモノが変質するという経験をせざるをえないのだ。

 だとすれば、価値があるのは本の装丁などではなく、何が発信されているかということでしかない。そこに目覚めて行こうと思う。回りくどくなったが、だからもう始めたほうがいい。インターネットによる発信を。だからこのブログを綴ることにする。