文学の中のマイナス暗示について

 1915(大正4)年、山村暮鳥の詩集『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(人魚詩社刊)が出版され、その表現が催眠の暗示のような技法を使っていることは以前ご紹介しました。この詩集の2年後には萩原朔太郎『月に吠える』が発表されています。その中で特に有名な作品はなんと言っても次のものでしょう。

  悲しい月夜
            萩原朔太郎

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい聲をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる、
波止場のくらい石垣で。
いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあはせの犬よ

 この詩は詩壇で好評のうちに迎えられ、朔太郎はたちまち、詩壇の大御所の仲間入りを果たしたそうです。朔太郎自身を「青白いふしあはせの犬」に見立て、その犬が月に吠えるというものですが、「なぜおれはこれなんだ」という嘆きのなかに、朔太郎自身の自らへのナルシズム(自己愛)が見え隠れするように思います。これは時代精神なのかも知れません。波止場という外国につながるであろう場所で青白い犬が遠吠えをする。それが朔太郎の時代の日本だったのかも知れません。
 そして、青白い犬とは不調和な黄色い娘たちの合唱の声が鳴り響いている。どこに向かう時間の中を、どこへ向けて吠えているのでもない。ただただ、月夜に吠える。そんな時代だったのかと思います。
 この犬こそ朔太郎自身であることは言うまでもないでしょうが、同時にそれが近代日本の自意識だったと思います。そして、同時にこれは時代への暗示、しかもマイナス面を含んだ暗示だったという気がするのです。

  「なぜおれはこれなんだ」という嘆き、そのようなナルシズムで自分の傷を舐める。「これ」と示されるふしあわせな犬は朔太郎自身であり、近代日本であったと思います。そして、このような言葉は当時の日本人によって、いつしか暗示的に読まれて行ったのではないでしょうか。
 私の勝手な感想かもしれませんが、朔太郎の言う「ふしあはせの犬」はマイナス暗示のフレーズだと思うのです。自己愛に満ちた虚無のようなものをそこに感じます。

 大江健三郎氏は、以前、文学は人間を根底から励ますものでなければならないとテレビで述べておられました。その意味では、私には朔太郎の詩は前向きな励ましの歌とはとうてい思えないのです。一般に、世に出る作品というものが暗示的な効果を持つとすれば、同時に社会に対する責任を負っていると思います。

 現代は朔太郎の時代よりも、地球的規模で切羽詰まって行く可能性があります。だからこそ、文学にせよ、マスメディアにせよ、暗示的なものを識別し、私たちに必要な前向きな暗示性こそ受け入れて行かねばならないと思うのです。本当の意味で人を勇気づけてくれる言葉こそ、私たちは見出して行くべきだと思うのです。