自己催眠について(2)

 話のスケールがいささか飛躍して恐縮ですが、釈尊が悟りを開こうとされた時に、最初の師匠から学ばれたのは、 「無所有処定(ムショウジョジョウ)」という、いかなるものにもとらわれない境地でした。釈尊はこの境地に至られましたが、心の平安には至らず、師のもとを去られました。
 そして、次に学ばれたのが、「非想非非想処定(ヒソウヒヒソウジョジョウ)」というものです。これは想念があるのでも、無いのでもないという境地です。思考にとらわれない境地と言うことでしょう。
 この段階こそ、いわば自己催眠によって至るべき心の状態ではないかと私は思います。意識はある。しかし、意識している自分を意識しない状態だと思います。
 釈尊はこの境地にも達したのち、まだまだ心の平安に至ったとは思えずにそこを去られたということです。そして、苦行に専念し、肉体を痛めつけることで欲望から解放され、精神の自由を得ようとされました。時にはいばらの上で寝たり、真夏の太陽の下で四方に火を燃やして裸で座るとか、いつも立って座らないなど。更に、断食もされ、死ぬのではないかと思われるほどの苦行に専念されました。それでも、釈尊の求められた平安に至らず、そして、やがて難行でもなく、苦行でもない独自の瞑想によって悟りを開こうとされました。6年間の苦行の後、「中道」(極端な快楽にもおぼれず、極端な苦行にも傾かない)を見出され、35歳にして悟りに至られたということです。要するに「仏陀」(サンスクリッド語。真理に目覚めた人の意味)となられたのです。
 もう一度、話を催眠へ戻すならば、催眠状態とは「非想非非想処定(ヒソウヒヒソウジョジョウ)」という想念があるのでも無い、無いのでもない状態に近いと思います。こう言うと難しく聞こえますが、要するに何かに夢中になって我を忘れている状態と言えるかも知れません。瞑想に夢中になっている状態ということとも言えます。
 自分でそのような状態に至ることは、出来れば最初は誰かに誘導してもらって、他者催眠によってその状態に達すると良いでしょう。一度でもそれを体験すれば、あとは結構自分でもそこまで行けるようになります。そして、様々な催眠瞑想の世界へ入って行けますし、自分で自分をコントロール出来る世界へと入って行けると思います。